優秀賞受賞作品①
「イッコク者」
                        山木田 修二

父は、就職のために上京する私に向って
「お前はイッコク者だから、苦労するだろう」と、予言した。イッコク者とは、融通のきかない頑固者という意味である。確かに正義感が強かったし、言い出したら一歩も引かないという向こう見ずなところがあることには気づいていたが、その生き方が正しいと確信していた。

高校時代、不幸なことに国民体育大会を県で開催することになった。そのため国体対策用の体育の先生が大量に採用された。別に怠けていた訳でも、手抜きをした訳でもなかったのに、バレーボールの授業中、手抜きをしていたと判断され、もう一人の選ばれた不幸な者と二人で、全員の前でトスの練習をさせられた。運動神経は鈍かったから、まったく無様な姿を見せることになり、クラス全員から嘲笑された。この仕打ちには、私がキレた。授業は八割出席すれば、単位が貰えると聞いていたから、翌日から体育の時間は、教室に残り、英語の長文読解や数学の勉強をしていた。一ヶ月ほどした頃、突然、体育の先生が数人、勉強をしている私を連れに教室に来た。いずれも若くて屈強な体格をしている。抵抗しても無駄だと思った。先生たちに、柔道場まで連行された。柔道着に着替えさせられてから、さんざん畳に投げ飛ばされた。それでも、私は、謝罪はしなかった。私の強情さに一層腹を立てた先生方は、代わる代わる投げ飛ばしてくれた。意識が朦朧として来た時、肩に猛烈な痛みを感じた。鎖骨が折れたのである。先生方が騒ぎ出し、車で病院に運んでくれた。肩からギプスを嵌められた時、父が来た。父は、小さな体格にもかかわらず、大きな先生方に向って行った。そして、無抵抗の先生方を平手打ちしていた。パシン、パシンという音は、私には心地よい音に聞こえた。そして父の勇気に感激していた。頑固が勝利した。

しかし、イッコク者と父から言われた私は、社会に出てから直ぐに躓いた。実社会は、妥協しない正義感だけで行動するものを許すほどに真っ直ぐには出来ていなかった。取引先の会社が東証二部市場に上場するにあたり株主を増やす必要から第三者割り当てをするという話が来た。資材部に属していた、ほとんどの者は、その話に乗った。額面で買えば、必ず値上がりすることは明白だったから、割り当ての上限まで株を引き受けた者もいた。私は、そんなことは、資材部という立場を利用しての役得を狙ったものだと思った。日頃、社内教育でも、立場を利用して、取引先から利益の供与を求めてはいけないと教育されていたから、私は、第三者割り当ての話を断った。そして、新入社員である身をかえりみず、部長に向って
「地位を利用して利益を求める行為である第三者割り当ては、資材部として全員辞退すべきではないか」と、申し出た。日頃の教育から考えれば、賛同が得られると思っていた。が、しかし、返って来た言葉は信じられないものであった。

「この程度の利益を得ても、取引関係において、情実を挟む者は資材部には一人もいない。それ以上、抵抗するなら、俺の目が黒い内は、一生うだつの上がらない者にする」

と、言い放った。私は、立場を利用して利益を得て、情実を挟まないままでいられることは不可能だと思い、本社に訴えた。今で言う「内部告発」をした訳である。第三者割り当ての話は、無かったことになったが、その仕返しは直ぐに来た。仕事が無くなった。電話機も無くなった。キャビネットも無くなった。話しかけてくれる者も無くなった。部内で完全に孤立してしまった。部長の脅しは現実のものとなった。しかし、生来の反骨心が湧き上がり(こんな嫌がらせに負けるものか)と、自分を鼓舞した。一ヶ月、二ヶ月は、それでも辛抱出来た。三ヶ月目あたりから、眠れなくなった。眠っても、早朝に目が覚めてしまう。心臓が悪い訳でもないのに、いつも胸がドキドキとした。会社に行くのが辛くなった。食欲も無くなった。精神的には限界に追い詰められていた。時々「死」という言葉が頭の中を駆け巡った。それでも(自分から辞表なぞ、絶対に出さない)と、頑張った。

しかし、一日が長く感じられ、次第に正常な判断が出来なくなった。当時、睡眠薬は印鑑を押せば、普通の薬局で買うことができた。夢中で、ブロバリンを幾つもの薬局から買い集めた。(死ぬなら、美しい場所で死にたい)と思い、富士山が見える河口湖に宿を取り、そこで服毒した。遺書も書けないほど疲れていた。
二日、二晩眠り続けたと聞いた。目が覚めた時、ベットの横には父と母の顔があった。その晩、退院し、新幹線で郷里に帰った。父は
「このイッコク者」と言ったきり、何も言わなかった。母は泣き崩れていた。
実家で療養していたが、会社からは何の連絡も無かった。九ヶ月間、ブラブラと精神科に通院しながら過ごした。父は、自殺の原因を何も聞かなかった。その間、一度だけ会社から勤労課の課長と資材部の部長が辞表を出すよう説得に来たが、父は
「本人が決めることだ」と、突っぱねてくれた。私は
「自分から辞表を出すつもりは、まったく無い」と返事をしておいた。勤労課長も資材部長は、見舞いの言葉もかけずに帰って行った。
その後、医師の治癒したという診断書を持って再度上京することになった。父は
「付いて行った方が良いか?」と、聞いてくれたが、私は
「その必要はない。自分の問題は自分で片付ける」と、断った。父は
「妥協することを忘れたら、命をなくすぞ」
と、別れ際に言った。その父が急性心不全で亡くなったのは、三ヶ月後であった。
私は、上京する時、既に、二つの事を決心していた。一つは、絶対に自分から会社を辞めない。もう一つは、何があっても、絶対に自殺という手段は、取らないということであった。
上京したその日の午後、東京駅に着いた足で会社に出社した。待合室で三時間ほど待たされたが、私は、まったくイライラしなかった。こんな事は、これから嫌というほど経験しなければならないことは、覚悟していたからである。

待合室に現われた勤労課の課長と資材部の部長は、大きなため息をしながら
「君みたいな鉄面皮な男は見たことがない」と、冷笑しながら言った。この言葉にも、私は、何の感情もなく耐えた。二人の管理職は、「これから何をやってもらうか考えたが、何もないから、取り敢えず会社内の清掃作業をお願いする」と言って、席を立った。

翌日から、トイレから事務所内までモップを持って清掃作業で一日を過ごした。久しぶりに会う、顔見知りは、一様に驚いた顔をするが、声を掛けてくる者はいなかった。しかし、私は、こんな事は覚悟の内だったから、何も感じなかった。むしろ、孤独な毎日に助けられているように感じていた。

半年後、清掃作業の後、郵便物の配達業務に配属替えになった。会社宛てに来る郵便物を担当者に配達し、書留や速達便を受け取る作業である。そして一日に二回、会社内の所定箇所にある郵便物を郵便局へ持っていく作業であった。会社のビルから外出することが出来き、気分転換になり、少しも苦にはならなかった。
どんな単純作業も黙々とこなして行く事に、会社側は、退職勧奨を繰り返すことは、困難だと考えたのだろう。次は、一流と言われる大学の経済学部を卒業した私を製造現場に配属した。半田鏝を使用して、電子チップを基盤に取りつける仕事であったが、その頃の私は、事務所で事務をしていた頃には考えられないほどの開放感を感じていた。

そして、どの職場にも平等に取り扱われることから疎外されている人が必ずいることを知ったことも、気持ちを楽にしてくれた。

気持ちが沈んだ時は、初心の二つの決意を思い浮かべ奮い立たせていた。そして、父の働く姿を思い浮かべていた事も助けになっていた。父は、朝七時から夜の十時まで、黙々と働き、一家を維持していた。それが、本当に大変なことだと、やっと知ることが出来ていたから、どんな理不尽なことにも耐えられた。

一番苦しいのは、自分の心の中で感じる差別感であり、平等に扱われない屈辱感であることも知った。いじめをしている当事者も傍観者も、本人が感じているほど深刻に考えてないことも知った。

学生時代は、イッコク者でも何とか生きて来られたが、実社会では、それが許されないことを、父の言葉から、父の死から、しみじみと知った。その後、出来る限り妥協するよう心掛けて生きて来た。

頑固なまでに意地を張りたくなったら、父の言葉と染色職人として黙々と働いていた父の後姿を思い出すことにしていた。父の寿命を短くしてしまったのは、私のせいだと今でも、そう思っている。残された母に心配をかけないように、世間に自分を合わせて、定年まで無事に勤め終えることが出来た。

「長いものには巻かれろ。巻かれろ」と、呪文のように唱えながら、随分と、生き辛らかったが。



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